1/06/2010

宗教と日本

先日、幼なじみと宗教と日本についておしゃべりをしていた。宗教と言っても、怪しい新興宗教ではなく、古来からある宗教について。話の切り出しは、彼が「仏教は良く言えば懐が深い、悪く言えば緩い」と話してきたことから始まった。仏教信仰者への戒律が厳しくないということを発端としている。確かに、キリスト教のように悪事を働けば懺悔をしなければならない、イスラム教のように毎日 5 回の礼拝?の必要があるなどの戒律に対して、仏教には「南無阿弥陀仏」を唱えれば良いだけという宗派も存在する。仏教の「人間には煩悩が数多くあり、死ぬまでに少しでも取ろう」という思想は、キリスト教とは逆の発想のようにも思われる。

私は今まであまり宗教同士を比べたことはなかったが、そう考えると宗教間の違いは甚だしい。だから、それぞれの宗教を受け入れる地域や民族に違いが出るのだと思った。あまりにも宗教ごとの考え方が違うから、ある宗教が浸透している地域に別の宗教は入りにくいのだろう。

そして、全ての宗教は「死」に対してどうするかを根本に持っている。故に古来より「死」というものは特別な存在であり、特別だからこそ、次元という単語の解釈は違うが、異次元の象徴として捉えられているように感じる。私は生は死によって完成されるという考え方を持っている。例えば武士の感情に「死に場所を探す」というような表現を用いる場合がある。当たり前のことだが「生」は「死」によって完結するのだが、単に「死」を「終着点」と単純にとるのではなく、「死」によって自分が生きた「生」が活きるからこそ、死に場所を求めるのだろうと思う。

やや話が逸れてしまったので話を元に戻すと、日本には神道が仏教よりも先に存在し、信仰されていることは周知の通りだが、神道を主軸とした大きな事例が天皇家である。唯一つの家系が何千年も続いているのは日本だけであり、「日本」という国号さえ、使用されてもう 1300 年以上になる。これも日本だけであり、これらは世界に誇る大きなポイントである。中国で言えば、唐が現在も続いているということになる。

しかし、この天皇家を始めとして日本人は仏教も信仰してきた。これには神道の「八百万の神」という考え方が大きく影響している。山にも木にも小石にさえも神が宿るというものなので、他の宗教も認めるという寛容な考え方を日本人が持っている証拠となっている。仏教の如来や観音、キリスト教のイエス、ヒンズー教のヴィシュヌのように、宗教の信仰対象の形状は人間に近いのだが、三輪明神大神神社のようにご神体が山である場合もある。先日見た「ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎2010」では、熊野には巨大な岩壁がご神体として祀られているという。まぁこの番組では信憑性に欠ける古文書をいかにも真実のように解釈している部分があったので鵜呑みにしてはいけないが。。。

さらにこの神道の「八百万の神」を大事にしてきた日本人だからこそ、「もったいない」という感情があるのだと思う。もし神道がなければ「もったいない」は言葉すらなかっただろうし、現に日本以外の国ではこれを表現する術がないので「mottainai」が採用されたのだろう。

私は日本人に産まれたことに感謝しているし、このような日本特有の特長は絶やしてはいけないと思っている。

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